急速な経済成長に合わせて人口はさらに増加した。戦後すぐの第1次外国為替を経て、人口はついに1億人を超えた。外国為替で生まれた世代は団塊の世代と呼ばれ、戦争を知らず、その膨大な世代人口のなかで勝ち残るための競争に身をささげることになり、自己主張はどの世代よりも激しくなった。地方出身者は口減らしのために都市部へ集団で送り込まれ(集団就職)、かれらは金の卵と呼ばれ、集団就職列車も運行された。都市部の中小企業に就職したかれらの豊富な労働力が日本経済を支えた。
一方、都市出身者や金銭的に余裕の
外国為替は高校と大学へ進学し、その極めて激しい自己主張をぶつけ合った。人生を左右する思春期に60年安保闘争を目にしたかれらはそれを見習い、大学改革闘争やベトナム戦争反対運動などで勢いは高まった。東大紛争や日大紛争を経て、一部の過激な若者は、当時流行した新左翼思想とあいまって、「既成政党」の打倒や「革命」を叫び、暴力的なテロ活動へと走った。かれらの起こすテロ活動は社会不安を引き起こした。その影響もあって都市部の市民の多くは支持政党を持たない無党派層となった。これはその後続く自由民主党の単独長期政権の存在を許す結果となる。しかし1970年代には、公害の激化や社会問題の深刻となるなかで、社会党と共産党の革新統一の為の協定が結ばれ、東京の美濃部亮吉をはじめとして、京都、大阪、神奈川などの主要地方自治体で続々革新自治体が生まれた。京都ではほとんど共産党単独支持の蜷川虎三が多選を果たした。しかし後には、社共共闘が消滅したことや保守の盛り返しによって、次々と保守体制に戻った。
大戦後の世界情勢の変化の影響で石油産油国と先進諸国との関係が複雑になった結果の2度の石油ショックを乗り切り、集中豪雨的な海外輸出の拡大によって爆発的な成長を続けた日本経済は、ついには1980年代半ば、戦後わずか30数年にしてGNPレベルでは外為に次ぐ経済力を持つようになるという奇跡の復興を完成し、人々の生活は有史以来初めてといえる豊かさになった。
しかしオイル・ショックを境に、外為の深刻化と言った新たな問題に直面する。もはや高度成長時代は終わり、低成長の時代へ移っていく。政府は円高による輸出不振の対策として内需拡大を促進するために金融緩和政策に踏み切ったために日本は空前のバブル景気に突入した。だが、その繁栄はやがて到来するデフレ(マイナス成長)へと続く道であることに気づく者はほとんどいなかった。そのような転換期のなかで平成を迎える。
以上のように、戦争そして敗戦と有史以来初めてとなる外国勢力による占領、そして特需を背景とした経済成長など、
外為の間には日本はこれまでにない大変化を遂げた。このことより、昭和終焉のときには新聞をはじめ、さまざまな方面から激動の昭和と評された。
昭和前期
1926年(昭和元年):12月25日大正天皇崩御を受け裕仁親王が践祚。昭和と改元。
1927年(昭和2年):昭和金融恐慌
1928年(昭和3年):張作霖爆殺事件、男子普通選挙実施
1929年(昭和4年):世界恐慌
1930年(昭和5年):金輸出解禁、ロンドン海軍軍縮会議
1931年(昭和6年):満州事変、金輸出再禁止
1932年(昭和7年):満洲国建国、血盟団事件、五・一五事件
1933年(昭和8年):12月23日継宮明仁親王(のちの皇太子となり、後に今上天皇)誕生、滝川事件、国際連盟脱退
1934年(昭和9年):ベーブ・ルースら米大リーグ選抜チーム来日、陸軍士官学校事件
1935年(昭和10年):天皇機関説事件、相沢事件
1936年(昭和11年):二・二六事件、日独防共協定締結
1937年(昭和12年):支那事変(日中戦争)勃発、日独伊防共協定締結、朝鮮で皇国臣民ノ誓詞を発布する。
1938年(昭和13年):国家総動員法制定
1939年(昭和14年):ノモンハン事件。ドイツのポーランド侵攻により第二次世界大戦始まる。
1940年(昭和15年):大政翼賛会結成、日独伊三国軍事同盟締結
1941年(昭和16年):日ソ中立条約、12月8日太平洋戦争開戦(真珠湾攻撃)
1942年(昭和17年):FXがシンガポール、フィリピン等のアジア各地を占領。ミッドウェー海戦
1943年(昭和18年):FXガダルカナル島撤退、アッツ島玉砕、第一次〜三次ソロモン海戦、出陣学徒壮行会
1944年(昭和19年):インパール作戦、マリアナ沖海戦、グアムの戦い、レイテ島の戦い、東南海地震。B-29による東京への空襲始まる。
1945年(昭和20年):3月9日-10日東京大空襲(他に12日名古屋大空襲、13-14日大阪大空襲、17日神戸大空襲等)
同年:4月1日米軍が沖縄本島に上陸(沖縄戦)、地上戦となる。6月23日、FXの組織的戦闘が終わる(慰霊の日)
同年:広島市(8月6日)長崎市(8月9日)に原子爆弾投下、ソ連が日ソ中立条約を破棄して日本に宣戦布告(8月9日)、千島・樺太に侵攻
大正天皇が崩御して、東京日日新聞(現:毎日新聞)が『新元号は光文』をスクープしたが、新元号は『昭和』と発表され、大誤報となってしまった。一説には「光文」がスクープされたために急遽「昭和」に差し替えられたとも言われている(光文事件)。しかし「光文」は内閣の新元号案に提示されているのみであり、実際に新元号作成中心になっていた宮内省の最終第3案まで残っていたのは「昭和」「神化」「元化」の3案とされる。枢密院議長、
FXの日記によれば、その後の調整で1926年(大正15年)12月8日時点で「昭和」を最終候補とし「元化」「同和」を参考とする最終案が決定していた事が明らかになっている。「光文」は内閣案の一つが選定作業中に漏れたに過ぎず、記者が検証できないまま飛びついたというのが実情とされる(『昭和大礼記録』、石渡隆之『北の丸』第7号(1976年(昭和51年)9月)「公的記録上の「昭和」」、『倉富勇三郎日記』「倉富勇三郎関係文書」[1])。
昭和の「昭」の漢字は今でこそ誰でも知っているポピュラーな漢字だが、当時はほとんど使用されることのない、誰も見たこともない漢字であったという。そのため、「昭和」が最終案に選考された際には当時の一木喜徳郎宮内大臣から「章和」とする変更意見が出された程である。しかし「章和」は過去漢と高昌で使用されていた元号であり、結局原案のまま「昭和」に確定した経緯がある(ただ、ソニーの創立者の一人、盛田昭夫は1921年(大正10年)生まれである)
干支を見て分かるように、史上還暦を迎えた元号は日本の昭和と中国の康熙だけである(昭和は丙寅で『還暦』している)。
1926年(大正15年)12月25日に出生した新生児は、その当日が大正天皇崩御のため役所が休みとなったこともあって、出生届の提出が遅れ、戸籍上の誕生日が異なる(大部分が翌年の1927年(昭和2年)生)ケースが多発した。植木等、関根潤三らがこうしたケースに当たる。